人に謝られるということがなんか苦手だ。謝られるとなんか自分のほうが申し訳なくなる。謝らせてしまってすみません、みたいな。
大人になるにつれて、いろいろと謝られることが増えたような気がする。でも、なんつーか慣れない。
なんだろうねこれ、謝るという行為はたしかに必要なんだろうけど、でもやっぱり謝られるのは嫌いだ。
なぜ人は謝るのだろう
子供の頃は、悪いことをしたら謝りなさいと言われてきた気がする。
そもそもこれが違うんじゃないだろうか。悪いことをしたから謝るんじゃないよね、申し訳ないという気持ちがあるから謝るんだよね。
だからとりあえず謝っておけばいいみたいなのとか、処世術としての謝罪みたいなのが受け入れられないのかもしれない。
謝るという行為は、本来であればなにかしらの損害を与えてしまい、それに対して申し訳ない気持ちを持っているということを伝えるためのもの。そして許しを乞う。
謝ったんだからもうこの話はおわりね!みたいな、許しを乞うのではなく形式的な謝罪とまでいくともはやある種の圧力だ。
謝るという行為が本来の用途から外れてしまっていることが往々にして存在していて、そのせいで謝るという行為自体が形式的なものになってしまっているように感じてしまっているのではないかな。
わたしが謝られることが嫌いな理由の一つはこれかもしれないな。
謝る側と謝られる側の構図
謝罪という行為には、謝る側と謝られる側というものが存在する。
この場面を想像すると、構図としては上下関係のようなものがあるように感じる。当然、謝る側が下で謝られる側が上だ。
悪いことをしたのだからこれくらいのことは言われて当然だ、というような価値観すらあるんじゃないかと思う。そうなってしまえばもはやただのサンドバッグ。
そもそもが謝る側も謝られる側も、基本的には対等な関係だと思うのよね。だからこそ謝罪というものが成立するのだと思う。
であれば責任を問われるのは問題があった事柄のみであるべきだし、過去のことを持ち出すだとかそれ以上のことは追求するべきではない。
上から目線で叱りつけるような謝られる側もさることながら、必要以上にへりくだる謝る側も問題があると思う。
そう思えば、わたしは必要以上にへりくだって謝られることが嫌いなのかもしれない。
謝るようなことでもないのに謝罪されても困るでしょ?要するに、そもそもがよっぽどなことでもなければ謝る必要性自体無いのではないかと。
お互いが前に進むための謝罪がいい
謝られる側が謝る側を一方で気にボコボコにするのはもはや謝罪じゃないよね。ただのリンチだ。
悪いことをしてしまったという事実があったとして、謝罪が成立してそれが終わりっていうのは発展性がないよね。
むしろ謝ったかどうかよりもそれをどうやって先に活かしていくかってことが一番重要でしょう?
そう思えば、謝罪なんてのは本当は形式的なものでもいいのかもしれないな。つーか謝る行為自体なくていいんじゃねとも思う。
とはいえだ、それではお互いの気持という部分がおざなりにされているよな。
結局のところ謝罪をするならするで、お互いが気持ちよくなれるようにしましょうってことなのかなぁ。
お互いの気分がいい謝罪ができれば、それはたぶん先につながっていくよね。関係も良くなるかもしれない。もっと前に進めることになるだろう。
そんな感じで、建設的な謝罪ってのができればたぶんわたしも謝られるのが嫌だってことにはならないでしょう。自分が謝る側になった時も、そう考えていきたいよね。
それではまたー。